白老町伝統文化継承者 一覧

 

塚原 信雄

継承内容

生 活〜白老地方の日常生活を支えた鍛造・農鍛冶技術者

系  譜

 網走管内留辺蕊(現北見市)に農家の五男として誕生。家業や出面取りをしながら尋常小学校高等科に通い、在籍中に教育制度の改変を経験する。卒業後は16歳から小樽市の幌内炭鉱における鉱山用機械・器具を生産・販売する()三栄精機製作所に入社し、そこで3年間鉄鋼の技術を学んだ。終戦後は、軍需産業の縮小を受けた炭鉱業界の先細りを見越して退社し、留辺蘂の実家に戻り各地の鉄工所を回りながら技術を磨いた。昭和29年、27歳の時に網走管内滝上町で塚原鉄工所を創業する。同年に結婚。

 昭和44年、一家を挙げて白老へ移住し、高砂町に塚原鉄工所を構え、農鍛冶として林業の道具(吊環・トビ・ガンタ)や農具(プラウ・ハロウ)の製作や修繕など専門の鍛造・溶接技術を駆使しながら近隣住民の要望に幅広く対応し、かつ側面では港湾関係事業にも従事し、信頼と実績を積上げてきた。

 部品の成形・製鉄の段階にあたる鍛造技術の保持者であり、白老では唯一の存在。平成2年には石山工業団地へ新工場を竣工し、後を継いだ息子たちと協力しながら操業にあたっている。現在は同鉄工所取締役会長だが、現役として火床の炎を守り続ける。また平成16年には白老八幡神社の参道入口に立つ道内2番目の大きさを誇る大鳥居(高さ16m)の建立も手掛けた。

大島 信也

継承内容

工 芸〜白老地方の木彫熊製作を中心とした伝統的木彫技術

系  譜

  栃木県矢板市生まれ。昭和15年父親の転勤に伴い美唄市に移り住んだ。

尋常小学校卒業後に予科練へ志願入隊し、長崎県諫早市に展開していた航空部隊に配属中、終戦を迎える。昭和20年5月から6月にかけ、偵察任務を受けてすでにアメリカ軍が上陸していた沖縄上空を飛んだ。また沖縄戦の推移を無線室においてリアルタイムで耳にした経験も持つ。終戦後、父親の在籍する三井炭鉱美唄鉱業所に入社し、31歳までの17年間を電気工として勤め、昭和36年同鉱を辞し白老へ移住した。

 白老では40年から木彫の先駆者である、小畑雪峰の影響を受け、見様見真似で腕を磨き木彫業に専念した。当初は、作品のほとんどを白老刊行物産()へ納めていたが、後年は問屋を介さず、白老・札幌・洞爺・登別など各地の店舗に直接作品を卸した。また、自治体として工芸産業の振興に力を注ぐ陶磁器の町益子(栃木県芳賀郡益子町)や高山 (岐阜県高山市)、井波(富山県井波町)などの地域へ積極的に足を運び、白老町における木彫の復興と伝承方法を模索してきた。

 なお。平成15年には町の委託により、同年9月の台風14号により倒れた史跡 白老仙台藩陣屋跡の赤松を利用し、力作『コタンコロクル』を彫り上げ、白老町へ寄贈している。

伊藤 信吉

継承内容

工 芸〜白老地方の木彫熊製作を中心とした伝統的木彫技術

系  譜

 渡島管内八雲町に農家の三男として生まれる。郷里での営林署勤務を経て昭和38年白老へ移住した。41年に白老観光物産(株)へ見習いとして入社、55年院は実弟富吉が独立し立ち上げた伊藤木彫(株)へ作業場を移し、平成17年に現役を退くまでの42年間、兄弟・夫婦協同で木彫グマを製作し続けてきた。

 一方、ブームの去りかけた木彫グマの新たなデザインを考案することで再興にも貢献し、かつ機械産業・分担作業のシステマチックな生産方法に大きく寄与することで、木彫グマに対する大量需要を支えた。信吉氏政策の作品の足裏には「白伊」が刻まれている。

 なお、平成15年には町からの委託により、倒壊した史跡白老仙台藩陣屋跡の赤松の廃材から『鮭咥え熊』を彫り上げた。

伊藤 陽子

継承内容

工芸〜白老地方の木彫熊製作を中心とした伝統的木彫技術

系  譜

 渡島管内八雲町出身。蔵林業を営む家庭に育ち昭和30年に信吉氏と入籍する。38年に白老町へ移住した後、41年から信吉氏とともに白老観光物産(株)で木彫、主に毛彫りの修行を始めた。その理由は「旦那が熊彫りになったら、毛彫りを覚えておかなければ、いざというときに困る」という誘いがあったから。

 以来、信吉氏が荒削りした型から精緻な毛彫り作業を行なう分担性を保ち続け、木彫グマ生産に心血を注いできた。実家の敷地内に伊藤木彫萩野出張所があり、現在でも同業者からの委託を受ける形で毛彫り業に従事している。

 

 

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問合せ

仙台藩白老元陣屋資料館 電話:0144-85-2666

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jinya@town.shiraoi.lg.jp