ゆのみ

 

 

「多くの協力者に囲まれて」2006年6月10日掲載)

 

 

釧路の春採湖畔で生まれ育った私は、歴史好きな父とともに、事ある毎に市内の古跡を散策、当時鶴ケ岱にあった郷土博物館に出入りしていた。そんなことから、将来は歴史の先生にとの漠然とした思いを胸に、仙台の大学で民俗学を専攻、昭和六十二年四月、地元に戻ることも、また教師の夢も潰えたが、古より東蝦夷地一の天然の良港を持ち、道内屈指の歴史を誇る厚岸町に学芸員として採用された。

数多くの文化遺産に恵まれた厚岸での仕事は、学生上がりで何の実践経験もない私にとって、非常に刺激のあるものであった。しかし、やればやるほど、若気の至りか、ただ単に“物知りのお兄ちゃん”から“昔語りのおじさん”になってゆく将来が見えてしまい、結婚もし子供もでき、地元の人たちからも大そう大事にされ、七年間も慣れ親しんだ厚岸のまちではあったが、誘いがあったのを良いことに、ノウハウという財産と少しばかりの経験を抱え、日高山脈を越え、誰一人として知る人のいない白老という、何やら“進んだように見えた町”、“世界のアイヌ民族博物館のある町”、“北を守った武士の史跡と資料館がある町”に平成五年一月降り立った。より大きなまちで、釧路の学芸員のように専門職としての仕事をやりたかったのである。

あっという間の三十代、十三年が過ぎた。この間、自分は学芸員として一体何をしたのだろう。一人でできた仕事なんて、これっぽっちもなかった。反面、後に協力者となって支えてくれる様々な人との出会いがあり、これらの方々と一緒に為し得たことが、どれほど大きなもので身になったことか。気づいたことがある。「専門職ならば専門の仕事だけをやるのが専門職だろう」と叫ぶのはやめよう。馬鹿げた自分、今でなくて良かったと。

自分が希望した職。何だかんだ言っても、当然やるべき職務の中で、今の仕事をやらせてもらっている。毎日忙しいが充実感がある。ましてや、多くの協力者が何かと声掛けしてくれ、盛り立て励ましてくれている。感謝。

甘えてばかりでなく、何らかの形で返したい。本当にそう思う。しかし、私に返せるのは、今まで以上の努力しかないだろう。これから身体も無理が効かなくなってくるだろうが、自分に厳しく人に優しく精進したい。

 

 

「朝の儀礼」2006年6月24日掲載)

 

 

♪「タン・ターラタタタタ タン・ターラタタタタ タタタタタタタタ タラタラター ハイ 1・2・3・4 5・6・7・8」。おなじみ「ラジオ体操」第一の序奏である。現在まで私が病気やけがとは縁遠く、このように元気でいられるのは、この体操と両親の押し付けのおかげだろう。

思い起こせば、物心のついた頃から朝六時十五分には強制的にたたき起こされ、家族総出でラジオ体操と二キロほどのマラソン、腹筋・背筋・バインダー、縄跳びに握力計、そして素振り・キャッチボールというメニューを“毎朝の儀礼”のように、凡そ私は中学校入学前まで毎日こなさせられてきた。おかげで体も大きく足も速く、持久力もつき、さらには誰にも負けない自信もついたものだ。

だから、結構早い時期から「僕も子供ができたら、親を見習ってラジオ体操をしよう、させよう」と思ってはいたものの、朝は眠たいもっと寝たい、布団が恋しいと、なぜか拒んできた。

就職、結婚してからもうすぐ二十年。私は今八十八キロの肥満体である。この二十年とは言わないまでも、子供に物心がついてからの十年間だけでも毎朝の儀礼を行ってきていれば、私の、そして子供たちの身体や精神にとって、これに勝るものはなかったのに。「後悔先に立たず」

今年五月六日の誕生日から、三十年ぶりにラジオ体操ではないが「朝のテレビ体操」を始めた。五人のお姉さんたちとの対面が楽しみでもある。早起き自体はそんなに苦にならなくなったが、当初、この体操は脂肪の鎧をまとった身体には相当に厳しかった。前屈みすらできなかった。それだけ何もせず、汗らしい汗もかいたことがなかったのか。そういえば、身体を動かすことといえば、1キロほどの徒歩か自転車での通勤、そして、ほぼ週末毎に開かれる子供たちの野球やバレーの応援、フットワーク頼みの写真とビデオ撮影のみか。

父親として少しの気力があれば、三人の子供たちに授けられたものをフイにしてしまい、返す返すも申し訳ない。加えて自分のこれからの人生に、今まで何もしてこなかったツケがどう回ってくるのか。不安でもある。

そこのお父さん、まず毎日のテレビ体操から一緒に始めてみませんか。

 

 

「歴史を紡ぐ」2006年7月8日掲載)

 

 

わが施設の大方の資料は、そのほとんどが蝦夷地警備の最高司令官、白老元陣屋の御備頭で、後に尊皇攘夷派の士として知られた仙台藩士三好監物の子孫から寄贈、または寄託されたものである。

三好家は、もともとは阿波国三好郡(徳島県)に居を構え、戦国時代には畿内・四国に勢力をふるった大族であった。織田信長に造反して滅ぼされたが、京都に逃れていた十一世義元は、片倉小十郎の口添えで伊達政宗に出仕し、陸奥国磐井郡黄海村(現岩手県藤沢町)に領地を与えられ代々伊達家に仕えた、仙台藩では中級に属する家柄であった。

監物は三好家二十世、十三代藩主伊達慶邦の抜擢を受け、四十一歳のとき藩の財政を掌握する出入司となった。一八五五(安政二)年には蝦夷地の調査にあたり、白老を元陣屋の適地として幕府から承認を受け、二代目御備頭として蝦夷地警衛の基盤を固めた。帰藩後には奉行を補佐する若年寄として藩政の枢要にあり、東奔西走するが報われず、六八(慶応四年)八月、自ら命を断った。幕末から明治維新にかけての激動の時代を生きた五十四年の波瀾の生涯であった。

昨日、監物の曾々孫で、仙台で耳鼻科医院を開業する三好彰さんが来町された。一九八八年から毎年、耳鼻科のないこの町の小中学生の検診にいらっしゃっていただいているのだから、今年で十九年目となる。花粉症研究の一人者でもあり、国内はもとより海外でも教鞭を執られている。

先生を一言で称せばパワフル。かの監物を彷彿させる活力と魅力とを持ち合わせている。年明けには縁の白老をテーマに初の著書も出版される。楽しみである。名の知れた先祖をもつ人の気持ちは分からぬが、お会いするたびに「ありがとう」、そう言ってくださる重たさに、改めて気持ちを引き締めた初夏の一日であった。

 

 

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